東福寺美術館
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当館は、当寺所蔵の文化財、襖絵などを保存・展示・公開して、広く壇信徒並びに、一般の皆様方の文化の向上に寄与する目的で、平成2年11月に建設したものであります。
所蔵品は仏画、絵画、書、工芸品など450余点。
概要






| 入館料 | 無料 |
|---|---|
| 開館時間 | 9:00~17:00 |
| 定休日 | 12月は休館 |
仏像は、高さ1.9mの十一面千手観音、鎌倉中期の金銅仏の懸仏(12.2cm)、タイ国の金仏2体(44cm)、チベットの木像仏(58cm)を展示。
仏画は、曼荼羅を中心に、県指定文化財の県下最古といわれる室町時代初期の十三仏図、全国に類例を見ない室町時代の平安初期における天台系室生寺流龍神信仰を色濃く反映した古様の請雨曼荼羅、江戸時代の熊野権現影向図、粉河寺曼荼羅、神仏混交時代の垂迹曼荼羅、江戸時代の巡拝者の笈(おい)など40点余り。
絵画は、阿波藩の御用絵師を中心に、狩野派の狩野典信・佐々木惟照・矢野栄教・河野栄寿・中山養福、住吉派の渡辺広輝・守住貫魚・鈴江貫中・佐香貫古・原鵬雲・三好賢古・森魚渕・守住勇魚・守住周魚、浜口南涯、井川鳴門、松浦春挙、前田半田、野口小蘋、野口小蕙50余名の作品。特に、渡辺広輝の「富士の四季」図屏風、広輝の弟子守住貫魚の「富士の四季」図屏風は同じもの1対ずつ有り、貴重なものです。
三好賢古の作品は60点所有している。また、元徳島城の板絵4枚は桃山様式を残すものです。
襖絵は、本堂の五室に、三十二面住吉派の画人によって描かれています。
書は、飯尾常房懐紙、前田玄以、千利休・小堀遠州の消息文・茶伝をはじめ、阿波藩儒官の新居水竹・柴秋邨・岡本韋庵、幕末三筆の貫名菘蓊・市河米庵、巻菱湖、日展参事の小坂奇石、当寺本山仁和寺門跡の染筆、梅舒適など50余点。
特に、建武3年の細川和氏、細川顕氏の奉書、大阪冬の陣の阿波7感状の山田織部の徳川秀忠の感状は貴重である。
また、書院には、平田蘭石(岐阜県関市)の篆書襖4枚があります。
その他、茶道具に、建窯の天目茶碗・珉平焼の茶碗、一后一兆作の棗・若島宗斉の棗、角谷一圭作の茶釜、他に青銅器、陶器、蒔絵としては、谷田忠兵衛、飯塚桃葉、輪島塗では、若島宗斉の仏画蒔絵、西塚栄治、池口美樹、沈金の前古清玉、松田清風、金地の蒔絵「阿古陀香炉」と芝山象眼の銀花ビン、13代酒井田柿右衛門の陶板・風鎮を展示。
北村西望・鹿島一谷・金森映井智などの工芸品、古文書類も所蔵しております。
当館の特色は阿波(徳島県)出身者の作品が主であり、これらの蔵品のうち、200点余を常時展示して、年3回ほど一部入れ替えして、展示しております。
仏教美術
書画
阿波守細川和氏と細川顕氏連署の奉書
後醍醐天皇により、建武の中興(1333)が始められた時、足利尊氏は細川和氏を阿波守に推挙し、細川定禅を讃岐に居住させた。
足利尊氏は、建武政権に離反して九州に西走する時、阿波守細川和氏と足利尊氏陣営の軍事を司る兵部少輔細川顕氏に、国において勲功の軽重に応じて恩賞を行うように仰せ付けられた文書。
あて先の漆原三郎五郎は、板野郡富吉荘西方の地頭で、勲功の賞に勝浦荘公文職を宛がっている。
建武3年(1336)2月15日に出されているが、尊氏が実際に将軍になったのは建武5年である。
この文書は「南北朝遺文 中国・四国編」に下総・染谷文書としての原本と考えられる。
徳川秀忠感状(山田織部佑宛)
読み下し文
今度於摂州大坂
表穢多崎、臨懸合之
戦場、竭粉骨之条、
松平阿波守令洩達之
通、感思食候也
慶長弐拾
正月十一日 (秀忠花押)
山田織部佑とのへ
説明文
大坂の陣で将軍家から与えられた「阿波の七感状」の一つ。
慶長20年(1615)1月11日
江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の感状(戦功を称える書状)。慶長19年(1614)に勃発した大坂冬の陣において、豊臣方の出城攻略に活躍した蜂須賀家重臣・山田宗登に与えられたもの。冬の陣における阿波勢の活躍は目覚ましく、宗登を含む7名もの武将が将軍秀忠・大御所家康からの感状を授かった。これらの感状は「阿波の七感状」と呼ばれ、それぞれの家のみならず藩全体の重宝とされていたが、近代以降は所在不明となっているものが多い。本状は現存する貴重な七感状の一つであり、徳島藩と山田家の武勲を今に伝えている。
佐々木 惟照(Sasaki Koreteru)生没年不詳
徳島の人。号は養郭、澤龍斎。狩野典信、惟信に師事。およそ寛政期(1789~1800年)に活躍。
渡辺広輝(Watanabe Hiroteru)1778~1838年 富士の四季
徳島の人、初め藩の絵師矢野栄教に師事、1796年幕府の絵師住吉内記広行に入門、後住吉広貫(広定)を後見、1809年藩の絵師、守住貫魚、鈴江貫中、佐香貫古を育成、画風は住吉派の気品のある細密描写、歴史画、山水、花鳥人物を得意とした。
守住貫魚(Morizumi Tunara)1809~1892年 近江八景の一部分
徳島富田秋田町の人。幼名は伸美、名は貫魚、字は士済、通称徳次郎。号は是姓斉、回春斉、輝美、定輝。16才で渡辺広輝に10年間師事、後江戸に行き住吉広定に入門。明治13年に大阪に移住、同17年の第2回内国絵画共進会で金賞受賞。後審査委員、帝室技芸員となり、日本画壇の重鎮となる。この画は若い定輝の時である。
森 魚渕(Mori Nabuti)1830~1909年
徳島の人。名は宇吉、号は初め美明、後魚渕。9才の時守住貫魚に入門、後各地を周遊した。貫魚門人中最も傑出した画人である。明治15、17年の内国絵画共進会で褒状を受ける。その技が認められ、同25年京都の中学校毛筆画教科書の版下を画く。当寺襖絵の一部。
三好賢古(Miyosi Kenko)1839~1919年 十六羅漢図
板野郡勝瑞の人。号は竹香、青連子と称した。14才で守住貫魚に入門、後、住吉広賢に入門。また、高野山で仏画を研修、指画にも長じていた。明治初年に貞光の折目邸へ描画に来て、17年間貞光で寄寓。各地に遊歴し、須磨寺、京都の南禅寺襖絵、八坂神社の三十六歌仙を描いた。当寺襖絵十六羅漢図の一部。
三好賢古(Miyosi Kenko)1839~1919年 順徳天皇図(「中殿御え会図」)
板野郡勝瑞の人。号は竹香、青連子と称した。14才で守住貫魚に入門、後、住吉広賢に入門。また、高野山で仏画を研修、指画にも長じていた。明治初年に貞光の折目邸へ描画に来て、17年間貞光で寄寓。各地に遊歴し、須磨寺、京都の南禅寺襖絵、八坂神社の三十六歌仙を描いた。
月岡雪斉(Tukioka Setusai)1750~1839年 月次の絵
父雪鼎に師事し、人物魚類などを得意とした。雪鼎は近江国日野の生まれ、京都の同郷の高田敬輔に狩野派を学び、さらに西川祐信の風俗画を慕い、叙情的で品格のある美人画様式を確立し、月岡派を形成して関西浮世絵の中心的存在となる。
板絵(Itae)江戸初期17c
徳島城西の丸御殿に入っていたと伝わる、太陽と鷹、滝に獅子の画。杉の一枚板戸。
工芸品
聖観世音菩薩・雷神・風神(Syoukanzeonbosatu Raijin Huujin)
北村西望(Kitamura Seibou)1884~1987
長崎県の人。明治45(1912)年東京美術学校彫刻科卒業。大正4(1915)年第九回文展初入選。同8年第一回帝国美術院展覧会審査員歴任。同10年東京美術学校教授。同14年帝国美術院会員。昭和30(1955)年長崎平和記念像完成。同33年文化勲章・文化功労賞受賞。同44年日展会長。103才没。聖観世音菩薩・雷神・風神共晩年の作。
チベット仏(tibet-buddhu)木造坐像 総高58cm
西チペット阿里地方のもので、年代は、中国清(17世紀~19世紀)時代頃。
仏像の形からすると、チベット風でなく、中国風である。
中国山西省交城県の中国の浄土教の最も由緒ある石壁山玄中寺にある七仏殿の中尊前に釈迦や菩薩が安置されている中の左右に座る釈迦像が最も古く元代(13世紀)の鉄仏がある、その像形がこの仏像に酷似している。
懸仏(kakebotoke) 鎌倉時代中期(13C後半)総高12.2㎝ 像高10.2㎝ 最大幅7.5㎝(蓮華座幅)の銅製 鋳造 鍍金の懸仏<つるぎ町指定有形文化財>
懸仏は、古くは御正体(みしょうたい)といわれ、10世紀から行われた鏡像が発展したもので、神仏習合の思想なども加わって、藤原時代から江戸時代まで盛んに制作され、寺社に奉納された。
この懸仏は、銅で造られ金メッキが施された金銅仏である。本体と台座は一連につくられている。頭部の螺髪(らほつ)は省略されている。両手は欠損している。頭部と台座にほそ穴があり、鏡にとりつけられたものとおもわれる。古様に感じられる鎌倉中期の懸仏として貴重である。
また、東福寺は、忌部神社の別当寺であったため、忌部神社との関連としても貴重な物である。
半鐘(hansyou) 安永9年(1780) 総高67㎝ 口径38.5㎝ 竜頭高12㎝ 鋳銅製の釣鐘型 <つるぎ町指定有形文化財>
半鐘は、もとは寺院で時間を境内の僧侶に知らせるため使用したもの。現在も法要開始などの合図用に使用している。江戸時代は火災の見櫓の上部に取り付けて災害などの発生時に鳴らした。
この半鐘は、鋳銅製で竜頭は、頭髪が大きく、中央に宝珠をいただき左右双頭が下面し、笠形に円柱を立てて噛む。笠形は高い円丘状、上より上帯、乳の間、池の間、中帯、草の間、下帯、駒の爪となっている。撞座は2個で八葉複弁蓮肉で竜頭に平行の位置にある。中帯は四条、縦帯は中央一条、左右二条の紐を鋳出した通状の形式である。乳の間は曲線に作り、四区で、乳は四段四列で宝形である。縦帯に陽鋳した銘文に右に「阿列美馬郡西端山」左に「五剣山 東福寺什物」池の間に「惣檀中」とある。裏面の縦帯に線刻の銘文、右に「安永九庚子三月廿一日」左に「現住権大僧都法印義貫代」とある。池の間四面に線刻された金剛界四仏の種子(梵字)と涅槃経の四句がある。「ウン(梵字)諸行無常 タラク(梵字)是生滅法 キリク(梵字)生滅々已 アク(梵字)寂滅為楽」とある。中帯上下に連珠文24個ずつ、下帯には四区に唐草文様を陽鋳している。駒の爪は大きく外に張っている。この鐘は規矩ととのい鋳造の優れた形姿も堂々としたものである。
鏧子(keisu)文化11年(1814) 総高26㎝ 口径33.2㎝ 厚さ1.3㎝ 響銅製で鉢形 <つるぎ町指定有形文化財>
鏧子は響銅製で鉢の形で下に座布団をしき、木などの棒で打って音を出すもので、寺院で用いる大型のものをさす場合をいう。
この鏧子には、上部外口辺に右から左まわりに刻印が「美馬郡西端山東福寺常什物 現住徳門 施主一円 上竹忠蔵 吉良長吉 文化十一甲戌年七月廿八日 京大仏住西村上総大掾宗春作」とある。
この鏧子は、鍛金(たんきん)技法といって、黄銅板を木鎚、金鎚や金床,当金などの道具を使って、焼きなまし加工をしながら根気よく打ち延ばし、鍛え上げて大きな鉢の形にしいてる。口縁は厚く胴より上は窄(すぼ)み、胴まわりから底部は鍛打ち跡が文様のように出来ている。
この時代の物は、現存しているものは少なく貴重である。
鐃鉢(nyouhati)元禄16年(1703) 直径33.5㎝ 鍔の長さ18.2㎝ 鍔の厚さ0.3㎝ 甲羅の直径17㎝ 甲羅の高さ7㎝ 銅製の円形<つるぎ町指定有形文化財>
鐃鉢は、古くからの法楽の鳴器、響銅鋳造後、鍛造を加えて作る。中央が鍛造してドーム状に突起した円盤状の法楽器である。両手に持って合わせて音をだす。
この鐃鉢には、両方の鍔の面に線刻の銘文がある、一方には「奉 寄進 鐃鉢 為傅峯授閑菩提 阿州 美馬郡西端山 東福寺什物」他方に「施主丸居村七左衛門 元禄十六癸未十一月六日 京堀川筑後大掾常味作」とある。
この鐃鉢は、円形に鋳造後、鍛造を加え、鍔(つば)の広い丈の低い帽子形で、円形甲羅の側面を強く撓(ため)、甲羅の中央に小穴をあけ、紐の穴をあける。外区は幅広い鍔をめぐらし、周縁は反る。片方の鍔の外周の一部欠損がある。江戸時代初期のもので銘文があることは貴重である。
巡拝者の笈(junpaisya-no-oi)
安政2年(1855年)
巡礼行者が、札所・霊場を巡拝する時、仏像や書物物品を入れた笈を背負って行く。桐製で、弘法大師坐像、扉に四天王を設け、その上の中心に大日如来、左に弥陀三尊、右に薬師三尊、前に金仏の釈迦如来像四体安置。最上段に、富士山と日天月天、中央に仙元大菩薩の刻印の銅版が貼付。
木札(御室御所御支配のページ参照)が付属してあり、これは、京都・仁和寺が出した巡礼者の身分保証である。
四耳茶壷 古丹波(shiji-chatubo kotanba)
桃山時代16c
桃山時代以前の丹波の古陶。立杭(兵庫県多紀郡今田町)付近の三本峠・太郎三郎・源兵衛山・稲荷山などの山間の窖窯で焼かれた。主に無釉で大甕・壷・摺鉢などがある。この壷は紐土作りで、口は垂直に立上がり横に外反す玉縁状の口縁となり、肩は撫で肩で四耳をつける。胴は丹波焼き特有の猫かきがある。また、底部にロクロの軸受けの下駄印がある。肩から玉垂れになって流れちる自然釉(土灰釉)の青胡麻は見事である。
黒釉兎毫班碗(kokuyutogohanwan)
芝山象眼(shibayamazougan)
御室御所御支配
御室御所御支配について
- ※支配札について
- 全国の六十六ヶ所の霊場に法華経を書き写し、奉納して巡礼して行く行脚僧を六十六部(六部ともいう)という。室町時代より始まり、江戸時代に盛んになる。
また、巡礼も西国霊場や四国霊場を始め、全国の有名社寺を廻って行った。
この巡礼者に江戸の寛永寺や京都の仁和寺が「御定目」を出して、巡礼の統制や掟を定めている。また、「御室御所御支配」の木札を出して、廻国行の保証をしている。
御室御所の仁和寺は安政5(1858)年に末寺に通達を出して、往古より当寺は六十六部の御支配所であったが、中絶していたが、今回復活したことを末寺、檀家に通達している。
この証明札の実物は、あまり所見していないので貴重なものである。
御室御所伽藍と東叡山の納経
御室御所伽藍(写真左)は京都の仁和寺であり、東叡山(写真右)は江戸の寛永寺で、天保13(1842)年の納経である。



